享録、天文(1528〜1554)の頃、河内の戦いで苦戦を強いられた湯川軍は、本願寺の加勢により窮地を救われました。城主湯川直光はこのことに深く恩を感じ、吉原浦に堂宇を建て、次子信春を仏門に帰依させました。この吉原坊舎は天正13年(1585)秀吉の紀州攻めの時に戦火に見舞われましたが、文録4年(1596)日高地方の門徒の協力にypり現在地に再建されました。日高別院は由緒と格式の高い本願寺の懸所(かけどころ)として、門徒をはじめ郡中の尊崇を集め、御坊舎付近は、各地の特産物を扱う問屋や酒屋・油屋・旅籠(はたご)などが軒を並べる門前・商業の町として栄えました。人々の信仰と繁栄の中で、「日高の御坊様」あるいは「御坊所」と呼びならされるうちに、いつしかこの地も御坊と呼ばれるようになりました。